Mar 26, 2009

FXで副収入への道筋

やはりこの時代では、不況などで苦痛だけで収入が思うようには育ってはくれないことですし、ぜひ処理し、別の収入の道筋を作成してわけですね。そこで選択された別の収入の手段はFXですね。 FXなら確実にしっかりとさらに大きな別の収入を得ることができるので、非常に魅力的な投資手段だと考えています。
最近の円高に気になっているのがFXです。以前に何が起こっているのか全くわからなかったが、今はインターネットもTVも、FXの広告を見ない日はありません。ただし、危険があるのが怖くて起動しないことがあります。初心者でも運営していけるのか非常に不安です。そして、FX業者も多数あるので、どこを選択するといいかもしれません。
 66回目の終戦の日を迎える15日、平和を語らう集いが相模原市緑区西橋本の市立平和公園で開かれる。主催するのは地域で平和教育に尽力してきた伊倉二郎さん(85)。公園は、自身が運営し、昨春閉園した保育所の敷地を寄付して整備されたもので、伊倉さんは「平和公園としての再出発。平和の喜びを語り合う場を続けていきたい」と話している。

 伊倉さんは1962年から48年間、保育所「私立ひかり幼児園」で地域の子どもたちを預かってきた。園庭では毎夏、核廃絶の祈念集会と終戦の日の集いを開いてきた。7日に63回目を数えた原水爆禁止平和祈念集会は「世界で最も歴史の古い反核運動」とされる。

 「園ができる前、日曜学校で子どもたちに原爆のことを話したら、集会をやろうという声が上がった。公になれば占領軍ににらまれる。当時勤めていた国鉄の独身寮の食堂に集まったのが始まりだった」

 伊倉さんは懐かしそうに目を細める。

 その園も昨春、高齢を理由に閉園。だが敷地の半分にあたる約580平方メートルを市に寄付し、平和公園として生まれ変わった。「保護者や地域住民が集会に参加するようになり、多いときで500人、台風のときでも7人が集まった」。子どもたちの純粋な思いから、草の根に広がった輪を途絶えさせるわけにはいかない、との思いがある。

 いま、伊倉さんには一つ不満がある。公園使用許可を市に問い合わせると使用料を求められた。「平和を語るのに、お金がかかる時代になってしまった。払わなければ許可できないというが、本来は市が主催すべきではないのか」

 戦争体験などを話し合う平和記念日対話集会は正午から。問い合わせは本紙参照。

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 和歌山県田辺市の扇ケ浜海水浴場一帯にあんどん千個をともす催し「扇ケ浜あんどんの夕べ」が10日夜、始まった。ほのかな明かりで幻想的な雰囲気が醸し出され、浜辺を訪れた市民らを楽しませた。14日まで連夜午後7時から催される。

 田辺観光協会が初めて取り組んだ催し。夕涼みがてら扇ケ浜を訪れてほしいという。

 あんどんは高さ約30センチの四角形で中にろうそくの灯がともされる。同市秋津町と万呂地域が毎年8月下旬に開いている「熊野古道―秋津・万呂―夢・あんどん祭り」(実行委員会主催)で使っているあんどんを使用した。

 10日夜は、白浜町で花火大会があり、扇ケ浜海水浴場でほのかに光るあんどんの向こう側に花火が打ち上げられ、来場者をより楽しませた。

 観光協会では、来場者がメッセージや絵を描ける白紙のあんどん(300円)を100個用意している。

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 和歌山県田辺市本宮町の熊野本宮大社で11日、江戸末期に始まったとされる大道芸「江戸芸かっぽれ」が奉納された。威勢良い掛け声で繰り広げられる軽快な伝統芸に参拝者が見入った。

 江戸芸かっぽれは、大阪の住吉大社の住吉踊りを起源とし、東京の浅草で踊られるようになった。本宮大社では2001年からほぼ毎年奉納しており、10回目。

 踊りを継承している豊年斎5代目桜川ぴん助家元(本名=長田芳子、東京都)をはじめ、堺市の「芳紀会」のメンバーら計21人が参加。市松浴衣にねじり鉢巻き姿で「かっぽれ、かっぽれ」と掛け声を出し、粋な大道芸で観衆を魅了した。

 この日は旧社地大斎原(おおゆのはら)と大鳥居前、大社階段下、本殿前の4カ所で踊った。

 メンバーの堺市、藤岡聡子さん(64)は「熊野本宮大社での奉納は、まさに原点。ここで元気を頂き、一年が始まる思い」と話した。

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 最高32.9度、最低23.7度。これは高松測候所(現高松地方気象台)が高松市で観測した1945年8月11日の気温だ。予想気温の最高が34度、最低が28度の本日と比べ、しのぎやすいようにも思う▼しかし、終戦の夏に各地で空襲を体験した人に取材すると、口をそろえるのは「暑い夏だった」。これまで、エアコンなどの電化製品がほとんどなかったから……と納得していた。だが、市街地の約80%が焼けた高松空襲の写真を最近見て、「強い日差しを避ける建物や街路樹はあったのか」と思った▼つらい被災体験も相まって、被災者に夏の日差しは残酷なまでに厳しかったのでは。「暑い夏だった」は温度だけで判断できない重い言葉だと思えてならない。【植松晃一】

8月11日朝刊

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